プロフィール

長〜い独り言シリーズ 其の壱

『芸の道を志すまで』

“どうしてこの道を選んだの?”
これまでに近しい人、初対面の人、色々な人に何度も尋ねられたことのある質問だが、
実はきちんと答えたことは意外に少ない。

なぜなら・・・話がものすごく長くなるから、である(笑)

もちろん、どうして芸の道を選んだのか、ただその理由だけを答えるなら、
ただの一言で事足りる。

“好きだから”である。

ただ、一切の迷いなくそう言い切ってしまえる、そこまでに至る経緯を
説明するのに少々時間を要するのだ。

この道を選ぶにあたり、多くの方に多大な迷惑をかけてしまっている。
そのことは、何をしても償えることではないと思うし、
この先どんなに芸の道で努力しようと許されるものではない。
許されたいとも思わない。
ましてや、ここに書くことに何かの意味を求める訳でもない。

それでも、短い話だけでは語れない想いを、
一度はきちんと文章に残しておこうと思う。
本当に長くなるので、この先は興味のある方だけ、
お暇な時に読んで下さいませ。

【故郷沖縄を出る】

プロフィール欄にも書いたが、もともとは就職のために長野にやってきた。
私は沖縄が大好きだった。もちろん今でも大好きだが。
沖縄の高校を出て、沖縄の大学を出て、当然沖縄で仕事をするつもりであった。

小さなころから色々なことに興味を示すタイプで、中学の頃までに
思い描いた将来の夢は3つあった。

まず一つ目がスポーツ選手。
その次にミュージシャン。
そして科学者。

よくあるパタンだが、最初の二つは、高校に通ようになり、少しずつ社会のことや、
現実が分かってくるに従い、本気で目指すことは諦めていた。
そして、3つ目の科学者についても、具体的なジャンルや
目的があった訳ではなかった。

それでも、大学受験が具体的な目標になる頃には、沖縄の自然に関することをもっと
勉強したいと思うようになっていた。
そこで、地元の琉球大学理学部を受験し、色々迷った末に3年生の秋からは植物を
研究している先生の研究室(ゼミ)に籍を置かせて頂くことになった。
それから大学院を卒業するまでの3年半は、人生で最も“研究者”らしい生活を
送っていた。詳しく話すとそのくだりだけで何ページにもなってしまうので割愛するが、
そうした大学生活の中で、ある日指導教官から長野での植物園への
就職を薦められる。
沖縄のために働きたいから、という理由で一度は断ったのだが、魅力的なフィールドで
ある長野の山々を思い描き、また、自分の専門分野の研究を続けられるという幸運を
前にして、ついにはその話をありがたくお受けしたのであった。

そう、一応自分の夢の一つであった“科学者になる”という夢を一度は
実現させたのである。・・・
正確には実現させかけた、と言った方がいいのかも知れないが。

とにかく、そんな訳で私は長野にやって来たのであった。

ふぅ、これだけ書いてようやく長野に来たとこまでか・・・先は長いなぁ(苦笑)

【長野での出会い、その@】

長野にやってきた私は、高森町の職員として植物園に勤めることになった。
つまり、不況の世の中で皆に羨ましがられる公務員という立場で、
さらに自分の専門分野の学芸員となったのだ。

実際には、植物園での仕事は困難なことだらけであった。
とにかく厳しい現実に気が滅入ることもあったが、それでも充実した日々を送っていた。
これまた、詳しく書くと膨大な文字数になってしまうので割愛するが、
自分で選んだ仕事に誇りを持っていたし、長野に来たことを後悔したことはなかった。
365日休まず出勤したし、週に2,3日徹夜することもざらだったが、それでも自分の
趣味、夢がそのまま仕事になっているのだ。仕事が嫌だと思うことはなかった。

それでも、もともと体を動かすことが好きだったので、忙しい仕事の合間をぬって、
こちらで新しくできた同じ町職員の友人らと、週末にスポーツをすることは
大きな楽しみのひとつだった。

そんなある日、私は出会ってしまった。
のちの自分の人生をガラリと変えてしまうものに。

町職員の青年部で、町内にある福祉施設の夏祭りの手伝いをしたときである。
その祭りで披露された余興のステージに私は感銘を受けた。
同じ下伊那郡の大鹿村を拠点とするよさこいソーランチーム
“美翔蓮”のステージであった。

ノリのいい音楽に合わせ、メンバーのひとりひとりがいきいきとして踊っていた。
学生時代の部活を思い出し、懐かしく、そして熱い気持ちがこみ上げた。

“高森でもチームを作って踊りたい”

高森で同志を募りチームを結成し、有志の者で大鹿まで踊りを習いに通った。
音楽に合わせてみんなで踊るのは想像以上に楽しかった。
部活に燃えていた頃のような充実感がよみがえり、その頃からなんとなく続けていた
筋トレは、“このためだったのか”と思うほどに心躍る時間であった。
そしてその年の秋、毎年行われる町の文化祭“ふるさとまつり”で
ステージデビューを果たすことになる。
このふるさと祭りでのデビューに間に合わせてチームの名前を、メンバーの多数決
で決めたのだが、実は、この時に僅か一票差でチームの名前になりそこなった
名前があった。

『覇舞』とかいてはぶ。

それを機に私が自分のニックネームとして使うようになり、のちに私が
所属することになる和太鼓・絆 御花泉でのステージネームHABの由来ともなった。

また、話がやや前後、重複するが、ここで触れておかないといけないことが
もうひとつある。これこそが、沖縄を出てからの最大の出来事と言えるだろう。

踊りを指導してくれた美翔蓮さんの代表に、私が高森の植物園に勤務していることを
話すと、まさにその植物園の裏手に芸能のプロがいるから一度挨拶しに
行くといい、とある人を紹介してくれたのだ。
そこで、私は仕事の休み時間にそのお宅を訪ね、高森でよさこいソーランの
チームを作った旨お伝えし、お世話になることがあるかもしれないのでよろしく
お願いします、と挨拶させて頂いたのだった。
その人こそ、のちに私のお師匠となる和太鼓奏者、塩原良その人だったのである!
そう、なんと私は将来自分のお師匠になる人の家の目と鼻の先に
就職していたのだった。

【長野での出会い、そのA】

話を少し戻す。
私達がデビューを飾ったふるさと祭りでの私の踊りを見ていてくれた人がいた。
その方が、“久高くんならきっと気に入るから”と自分の所属しているサークルにも、
ぜひ見学に来てくれと声をかけて下さった。
正直、ちょっと面倒くさいなと思いながら、そのサークルの活動日に見学に行った。
私は想像だにしていなかった。そこで、あの夏祭りの時に感じた感動、
よさこいソーランを踊っている時の興奮をはるかに
上回る衝撃を受けることなど・・・。

(つづき)

その日私がお邪魔したのは、“高森町民舞教室”の練習場だった。
私を誘ってくれたのはその会員の原さんという女性の方。
“教室”とついていることから分かるように、正しくはサークルではなく
高森町公民館が主催する町民向けの教室だったのだが、
指導されている木村先生の気さくな人柄もあり、サークルのようなごやかな
グループ、練習風景であった。

しかし、そのどこにでもいそうな普通のおばさま(失礼!)お姉さまたちが
披露してくれた舞に、私の眼は釘付けとなった。

それは“御神楽(みかぐら)”という舞だった。
あとから聞いた話では、それは岩手県に伝わる民族舞踊で、わらび座の活動
によって全国に普及した舞らしい。
その道ではそれなりに名の知れた舞らしいのだが、私にはその時初めて目にする
舞だった。

“なんだこれは・・・!”
衝撃だった。

当然と言えば当然だが、その時の私はその舞を的確に解説する言葉は
持ち合わせてはいなかった。
しかし、目の前に展開されている舞が、自分にとって全く未知の領域
にある振り付け、体の使い方で構成されていることだけは瞬時に理解できた。

“これを舞えるようになりたい”

義理でちょっと顔を出して、社交辞令だけ言って帰るはずだったその見学で、
そんな気持だったことは一瞬のうちに棚に上げ、その場ですぐに練習に
加わわらせて頂いた。

もちろんすぐに先生のように上手に踊れるはずもない。
体の使い方もひどいものだったであろう。
にもかかわらず・・・体は歓喜していた。
大袈裟だが、体の奥底に潜む何かが目覚めた感じ、というか、
筋肉たちが“これだよ!これ!!”と言っているような気がした。

今ならば、
『その舞は、いわゆる“なんば”と言われる、体をねじらない動き、
端的に言うと右手と右足は同じ方向に動く、というような、古来の日本人が
生み出した身体操法によって構成されているため、舞っていると自然に体が
動き、気持ちよく感じるのは当然だ』
などと、理屈をつけて納得もできるが、その時はただただその不思議な気持ちよさ、
恍惚感に魅せられ、無心に先生の動きを真似ていた。

その後、 木村先生から話を聞いたり、色々な本、資料などから得た知識により、
民舞の振りを身につけることは、今は失われた、しかし本来すごく自然に、
そして最大限に体を使えるようあみ出された、日本古来の体の動きを
身につけることだという認識を持つようになった。
この“体の使い方”については、きっといつかまた別のタイトルで詳しく
書くことになると思う・・・というか、その探究こそが私の人生の最大のテーマ
なので、そのことについてこそ真っ先に述べないといけないのだが、
話を進めないといけないのでここでは深く言及しない。

練習を重ね、少しずつ舞えるようになってくると、体内を、脳内を、
めくるめく快感が突き抜けた。
時にその快感を求める欲求は、人間の三大欲求と言われる“食欲”“性欲”
“睡眠欲”を凌駕することさえあった。
あとで再び述べると思うが、この欲求こそが、私に芸の道を歩ませる決心を
させたのであった。
ん、この話、ここの数行だけ書けばそれで済んだんじゃないだろうか?
いやいや、ここまで書いたのでとことん書きます。
もういい加減疲れたという方は、ここで読むのをやめても大丈夫です(笑)

とにかく、私はこうして民族舞踊、伝統芸能の虜となったのだ。

【長野での出会い、そのB】

さて、ここでまた少し話を戻さないといけない。

私が高森でよさこいチームを立ち上げ、大鹿に練習に通うようになった頃、
私は自分の人生を変えるもう一人の重要人物と出会った。
その人こそ、“太鼓打ちのハブ”を誕生させた人物、宮島美代子さんである。

つづく
(さて、久高さんはいつになったら仕事を辞めるのでしょうか。
 この話は無事に完結するのでしょうか・・・)

(つづき)

この宮島美代子さん、出会った当時は町内保育園の総園長さんであり、
下伊那郡では結構名の通った太鼓グループ“心鼓毬 彩”の代表を務める
高森町ではちょっとした有名人。
もちろん、同じ町職員だったので、それまでにも何度かお会いしたことは
あったのだが、顔と名前を知っているくらいで、特に親しく話したことは
なかった。

そんな美代子さんとも、やはり美翔蓮さんとの繋がりの中で親しくなった。
近隣で和太鼓とよさこいソーランをしているグループ同士、イベント等で
よく顔を合わせていたこともあり、両グループは親しい間柄だったらしい。

“高森町の和太鼓グループの代表”
町職員の集まりの席で、私はその方に挨拶させて頂いたのだった。

高森町でもよさこいチームができたということを、美代子さんは大いに
喜んでくれた。これから先、お互いに色々お世話になるだろうから
よろしくお願いします、と。

それ以来、美代子さんにはほんと〜〜にお世話になっている。
私が勤めていた植物園のイベントに、心鼓毬 彩として出演して頂いたことを
きっかけに、仕事においてもプライベートにおいても何かあるたびに
彼女を頼るようになったし、それに応えていつも必ず私を助けてくれた。
職場で孤立しがちだった私にとって、その存在がどれだけ心強かったことか。

ここでもう一人、私の仕事を支えてくれた友人のことを書いておかなくては
ならない。(さぁ、この先何人“もう一人”が登場するでしょう)

私が移り住んだ高森町からわずか北に行った駒ヶ根市には、
すごい偶然だったのだが、琉球大学時代の同級生が住んでいた。
なまえは“みや”(もちろん本名ではない)

沖縄から出てきた私にとっては、彼はこちらでの数少ない、頼れる友人であった。
職場や近しい人には話せないような悩み、愚痴を、彼はいつも
我慢強く聞いてくれた(涙)
彼については、詳しくはまた別の機会に(みや、悪い!)

とにかく・・・短い期間だったが、私がなんとか植物園での仕事を務められたのは、
この二人の助けがあってこそ、だったのだ。

そんな美代子さんや“みや”達に支えられてなんとか植物園での仕事に
励んでいた私だったが、心の中には大きな悩みが生まれていた。

“踊りは好きだが、仕事との両立は無理だ。どうすれば・・・”

前述の通り、私が就いていたのは一年間一日も休まずに働かなければならない職務。
もちろん望んでその職に就いたのだから、手抜きはしたくない。

“踊りは、空いた時間だけにすればいい”
そう言ってくれる方もいたし、もちろんそうしていた。
しかし、もともと研究職というのは、とにかく現場に出て植物と顔を突き合わせ、
それ以外の時間は専門書に目を通す。
仕事で植物に触れ、息抜きで植物に触れる。
そんな生活をするのが当たり前の世界である。
それ以外に、事務仕事やイベントの企画運営、町職員としての仕事もあった。

本当なら始めから踊りを踊る時間などなかったわけで、その中でいくら
時間をやりくしても、周りからは“仕事はそっちのけで”と見えただろうし、
何より、自分の選んだ仕事に100%の力を注げないことに対して、
自分自身を心のどこかで責めていた。

“ストレス解消、リフレッシュすることで仕事の効率を上げる・・・”
そんな理由付けも、自分にとっては詭弁でしかなかった。

“どちらか一つにに絞るべきだ。当然仕事を選ぶべき。でも・・・”
心は大きく揺れていた。

(つづく)

【運命の日】

そんな悩める日々を送っていた時、私はあるライブを見に行った。
美翔蓮さんが、塩原さん達と一緒に出演するからと誘ってくれたのだ。
私は高森のよさこいチームメンバーと共に、会場である飯田市中央公園まで
出かけて行った。
もちろん、“誘われたし、ストレス解消のため”と自分に言い聞かせ。

しかし、そのライブが私の人生を変える、最後の決定的一打となった。

それは、塩原さんと、塩原さんのプロデュースチーム“御花泉”の、
「台湾凱旋ライブ」と銘打たれたライブであった。
入場は無料であったが、大勢のスタッフさんが関わっており、
野外であるにも関わらずオープニングに“振り落とし”を使用したり、
スクリーンで映像を上映するなど、手の込んだライブであった。
十分に見ごたえのある舞台で、しかし最も私を感動させたのは、
その公演の最後(だったと思うが)の挨拶で、塩原さんの言い放った
ある言葉であった。
その言葉が私の決意を固めさせた。

“田舎も都会も関係ない。東京でも名古屋でもない、この飯田の地から
世界に向けて新しい文化を発信したい”

この小さな町の小さな公園の小さなステージの上で、
その人は臆することなく、本気で“世界”という言葉を口にしたのだった。

植物園で歯を食いしばって働いてきた
自分の信念と同じであった。

“こんな田舎では・・・”
“町立の植物園なんて・・・”
“そんな聞いたこともない話、うまくいくはずがない・・・”

働き出してから、よく耳にした言葉だった。

“そんなこと関係ない。何の言い訳にもならない”
“今はどこからでも新しい情報を発信できる”
“他ではやっていないことだからこそ価値がある”

そう信じて働いてきた自分だったが、残念ながら、塩原さんの言葉により
固められた決意はその仕事に対するものではなかった。

この先の人生で自分が使うことを許される時間、金は限られている。
その全てを捧げても後悔しない生き方がしたい。

“自分は人生で何が一番したいのか?”

世の多くの人が、おそらく人生の中で何度となく相対する
その問いかけ。
しかし、その中でいったいどれだけの人がその問いかけに対して
明確な答えを出せるのだろうか。

もちろん、はっきりとした答えが出せずとも、その答えを探しながら、
またはその時にできることを一生懸命こなしながら人は生きるのだろう。
それができるなら、それも間違いなく幸せな生き方である。

自分はとても幸せな人間だ。
大学で勉強してきた自分の好きな分野で仕事も見つかり、
毎日忙しく働くことができる。

植物は大好きだ。仕事と趣味の両方にするくらい。

しかし、それ以上に好きなことが見つかったとしたなら・・・。
飯を食べることも忘れ、寝る時間を削ることもいとわないほど
自分が引きよせられるのだとしたら・・・。

“人生で何が一番したいのか”
そう、その答えは実はすでに見つかっていたのだ。

自分は踊りが踊りたい。

目の前に立つあの人が気付かせてくれた。
実際に踊りや太鼓を生業とされているその人の言葉は、
やはり信念に満ちた力強さがあった。。

自分も舞台に立てば、堂々と大衆の前で自分の思いを述べられるだろうか。
自分はここにいるんだと、大声で叫べるだろうか。
周りに何を言われても、全て自分の責任だと胸を張って言えるだろうか。
自分の人生を生き抜いたと笑って死ねるだろうか。

“自分もプロの舞台人になる”

固く心に誓った。
2005年8月のある暑い夏の夜のことであった。

(つづき)

【新たなる決意】

それから仕事を辞めるまでの約10ヵ月間は、あえて踊りから離れ、
がむしゃらに働いた。

何をしても許されることではない、裏切りとも言える行為。
就任してわずか4年、中途でその職を辞する責任の重さ。

全てを理解した上で、それでも新たな道を進む決意をした自分にとって、
せめてもの、本当にせめてもの償いのつもりであった。

植物園で実現させたかった企画を、できる限り全て実行した。
そして、それらを含む、自分がしてきた仕事の全てを記録として残した。
身勝手な望みだとは分かっていたが、いつか誰かがそれを少しでも
活用してくれれば、と。
おそらく、人生で最も忙しく働いた期間であった。

今思えば、その最後の10ヵ月が、今の自分を支える大きな基盤となっている。
もちろん“人生経験として”という意味でもあるが、もっと具体的な仕事の手順、
例えばイベントの企画や実施、スタッフとの連携、当日の司会、
などもこの期間に経験した。
なぜか、パソコンでの作曲方法、シンセサイズ、CD作成の方法まで、
この時仕事の中で身につけた。
今でもお世話になっている多くの方々ともこの頃に出会った。
そして、今どれだけ忙しいことがあっても、この頃を思えば
大したことではない、とも思える。

それだけがむしゃらに働いていたからこそ、逆に自分の新たな決意がどんな状況に
あっても決して揺るがないものだと、自身で再認識することもできた。

こうして迎えた町職員としての最後の日、2006年6月30日。
この日、本当に最後の最後となった仕事の場で、
私は宿命ともいえる出来事を経験する。

朝、役場での挨拶を済ませ、お世話になった各保育園で挨拶を済ませ、
植物園へと戻る。
最後の後片付けを済ませ、職員の皆さんに挨拶を済ませ、植物園を出る。
私に課された町職員としての最後の仕事は、その日勤務時間外(夕方)に
町内で開催された、とある会議への出席であった。

その会議には、町内の企業をはじめ、ボランティア団体など多くの高森町民が
参加していた。
私の肩書はそこではまだ町の植物園の学芸員。
その日がその肩書を名乗る最後であることを知る人は周りにはいなかった。

私の勤めていた町立の植物園は、建設前から賛成派と反対派で、町内は真っ二つに
割れていたらしい。
実際、私が就職して、開園してからもずっとあちこちで根強く反対の声は聞こえていた。
私はそのことも十分に承知した上で、それでも協力して下さる町民の皆様と共に
色々な事業をしてきたのだったが、よりによってその最後の現場で、
たまたま隣に座った方から、初めて面と向かってその存在を非難されたのだった。

よほどの思いがあったのだろう。
会議の議題もそっちのけで、その方は話し続けた。
困難な町の財政状況について語り、だから自分は始めから反対だったのだ、
あんなところうまくいくはずがない、職員は働きが足りない、と。

何も言い返せなかった。
もちろん、言いたいことは山ほどあった。
そんな考え方だから・・・と何度も口に出かかった。
しかし、そんなことを言うどころか、言い訳することも、
まして自分がその日その仕事を辞めることなど、とても言えなかった。
そんなことを言う資格は自分にはなかった。
ただただ、黙ってその方の思い受け止めながら、
“この声を背負っていかねばならないのだ”そう思った。

本当に多くの方の心に支えられ、そしてそれを踏みにじってしまった。
私を推薦して下さった大学の恩師、公私とも面倒を見てくれた初代園長、
応援して下さった多くの町民のみなさん、関係者のみなさん。
冒頭にも書いたが、それらの方々の思いを裏切った罪は、何をしても許される
ものではない。
反対されてきた方々にも、結局は“それ見たことか”と思わせてしまった
だろう。

それでも、いや、だからこそ自分は胸を張って生きなければならないのだと思う。
“決して逃げたのではない”と分かってもらえる日が来るまで、
迷うことなく突き進む必要があるのだ。
後悔などするはずもない、自分は新しい目標を見つけたのだと。
いや、例え受け入れてもらえなくとも、許してもらえなくとも、
お世話になった方々へ、高森町へ、形は違えどいつか必ず恩返しをする。

それが、私がこの町で活動を続ける理由の一つでもある。

【そして芸の道へ】(いやぁ、やっとここまで来た!)

なんだか後半は湿っぽい話になってしまったが、
全てを背負いながらも、それでも私は明るい気持ちで新たな一歩を
踏み出した。

踊りに魅せられてこの道を選んだ私だが、実際にまず始めたのは和太鼓であった。

理由は二つ。
一つ目は、塩原さんのプロデュースチームが和太鼓のチームだったこと。
二つ目は、美代子さんに“踊りが上手い人は太鼓も上手い”とのせられたこと。

そして私は、心鼓毬 彩の一員となり、御花泉の一員となり、自分の芸歴を
スタートさせたのであった。

また、ちょうどこの頃に、今でもお世話になっている牛山太鼓店さんの
和太鼓道場“命響館”(当時はまだこの名はなかったが)を稽古場所として
使わせて頂けることになり、おかげさまでそれ以降どうしても予定があり
通えない日以外はほぼ毎日通って稽古に励むことができる。
特に和太鼓にとって、稽古場所が確保できることがどれほどありがたい
ことなのか、おそらく全国の太鼓打ちの方は皆よくご存知であろう。

今はどちらも卒業させて頂いたが、この“心鼓毬 彩”と“御花泉”の
二つのチームでは、本当に様々な経験をさせて頂いた。
心から感謝している。
そして、塩原さんには、今でも時折貴重なアドバイスを頂き、時には
演奏のサポートなどもさせて頂いている。
二つのチームで経験したことや、太鼓打ちとしてどう精進してきたか、
などについては、いくらでも書きたいことはあるが、
それはまた別の機会にしよう。

さて、ここまで読んで下さった方は果たしていらっしゃるのだろうか。
もしいらっしゃたのなら、本当にありがとうございました。

ちなみに、今後執筆(?)予定のテーマとしては
『わが人生の最終目標:仙人』
『大太鼓にかける想い』
『太鼓と踊り』
『久高徹也の芸とは』
などなど。
今回の“長い独り言”に懲りなかった方は、どうぞお楽しみに。

ただし、あくまで予定ですし、書くとしても気のむいたテーマからですので
あしからず。

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