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長〜い独り言シリーズ 其の参

『基礎練習の重要性および危険性』

何やら偉そうな論文のタイトルようだが・・・

以前よりこのことについては思うところがあったのだが、
最近ますます強く感じるようになってきた。

いい機会だと思うので、少しここに思いを述べて
おくことにする。

【基礎練習の持つ二面性】

芸の世界に限らず、あらゆる物事において“基礎”というものは、
最も大切なものの一つであり、今改めてその重要性について
述べることではないだろう。

基礎がしっかりしていればいるほど、より高い到達点を臨めるし、
多様性や柔軟性も堅実な基礎あってこそ、である。

私もそのことに対して異論は全くないし、芸の道に入ってからも
ひたすら自分の基礎力を高めるべく稽古に精進してきた。

しかし、最近この“基礎練習”というものに、大きな危険性、
落とし穴とでも呼ぶべきものが存在することを、
はっきりと確信している。

今回は特に“和太鼓”に的を絞り、その基礎練習が持つ
危険性について述べておきたい。

【ある型(形)への固執】

これは、比較的多くの方に共感して頂ける
ことかもしれない。

和太鼓には、“流派”(と呼んでいいかは分からないが)が
無数に存在する。

その全てが素晴らしいと思うし、ひとつひとつ優劣を
つけようとするのは無意味なことであろう。

では、和太鼓を身につけたいと思う時に、
無数にあるスタイルの中でどれを選ぶのか。

おそらくほとんどの人は、初めて自分が教わった
スタイルの中で研鑽を積んでいくだろう。

そして、そのスタイルが自分にあっていると感じて、
または他のスタイルの存在を知ることなく、
あるいは知ってはいても、それを学ぶ必要はないと、
始めに身に付けたスタイルを生涯つらぬくこともあるだろう。
もちろん、それはそれでよい。

しかし、少し本格的に和太鼓を知りたい、高いレベルを
目指したい、と思うのであれば、それを学ぶか
学ばないかは別として、世の中には多くの異なる
スタイルが存在することを知るべきだと思うし、
またそれらを尊重する気持を持つべきだ。

さいわい、これまでに“自分の太鼓が全てだ”などと
言っている人にお会いしたことはないし、
自分が他の人に指導させて頂くときなどにも
必ず“色々なスタイルがありますが”と
つけ加えるようにしている。。

これは、別にあとで上げ足を取られないための
心がけではなく(もちろんそういう意味があることも
否定できないが)、“自分の知っているものが全て”と
思いこむことほど、成長の妨げになるものはないと
思うからこそ、言わせて頂いているのである。

【目的の履き違え】

さて、実は、一つの型(形)へ固執することの他に
基礎練習には怖い側面がある。
私は、こちらの方がより、危険性が高い、と考える。

それは、
“目的を履き違える”
ということである。

例えば私の場合、太鼓を打つには
@足を肩幅、または太鼓の幅よりも広く構える
A左足をやや前に、右足をやや後ろにおく
B腰を入れて胸を張って構える
C腕は耳の横まで振り上げ、真っ直ぐに伸ばす
D足、胴体、肩、腕の順に動かし腕(バチ)を振り下ろす
E打ち込む瞬間には膝を曲げ、ヘソの高さで太鼓にあてる
Fバチが太鼓に当たる瞬間だけ手を握りこむ
G打ったあとのバチは皮の上にとどめず、前方へ突き出す
Hヘソで持ち上げるイメージで腕(バチ)を元の位置へ引き上げる

といったような形、基本を教わってきたが、その際に
必ず私のお師匠である塩原さんはそれぞれの目的を
説明して下さった。

しかし、一緒に教わってきた人たちの中にも、
その目的を履き違えてしまう方は多かったように思う。

つまり、@〜Hにあげたような“動きそのもの”が
学ぶべき和太鼓の基本、稽古の目的だと思ってしまうのだ。

もちろん、始めのうちはそれでいいのだが、
そのまま突き進んでしまうとすると、これは
非常に危険なことである。

@ならば、足を開くことが目的なのではなく、体をより
安定させること、また多くの場合見栄えをよくし、大きな
動きをしやすくすることなどが目的である。
Aならば、もちろん見た目のこともあるが、これは舞台上で
より実践的で多彩な表現、つまり左右だけでなく前後の
動きをも可能にすることが目的である。
BやCも、見た目をきれいに、カッコよくすることだけが
目的なのではなく、まずは体幹(軸)を重力の向きと一致させ、
腕やバチを重力の力を借りつつ最小限の力で振り下ろす
感覚を身につけることなどが最大の目的である。

Dは身体全体を使うこと、Eは体重を最大限に利用すること、
Fは脱力によって、より大きく、より早く、よりスムーズな動きを
みにつけることであったり、GやHは太鼓の皮が押し返してくれる力を
身体全体をつかって感じ、それを大きな表現に生かすとともに、
次の打ち込みへのエネルギー源として利用すること、
そして、バチは行きたい所へ導いてやるだけでよく、
決して言うことを聞かせようなどと思わないこと、など。
すごく大雑把な説明ではあるが、そういったことが
この形を稽古する目的なのである。

これを意識、理解しないままに基礎練習を続けてしまうと、
結果、どんな太鼓を打っても同じような動きしかできなくなるし、
さまざまな振り付けや動きを取り入れたとしても、
身体の使い方、力の巡らせ型、伝え方の本質がつかめて
いないため、ひたすらに辛くてキツイ太鼓を叩くはめに
なってしまうのだ。

【複数名で打つ太鼓】

では、なぜそのような危険があるにも関わらず、
場合によってはそうした危険があることすら
知らされぬままにそうした基礎練習を
続けてしまうのか。

これは、太鼓を練習する場というのは、
あるグループや教室に属し、まずはその中で
共通の動きができるように指導を受ける
場合がほとんどであるためだと思う。

個性が光り、それぞれが世界観を醸し出すことができる、
というのが和太鼓の大きな魅力の一つであるが、
しかし、異質な動きをするメンバーがいたときに、多くの場合
それは矯正されてしまう。
もちろん、チームである場合にはそれは必要な
プロセスであるし、最初から“個性が大事”などと
いっていると、まとまるものもまとまらない。

しかし、あまりにも“整合性こそが美だ!”という
価値観に囚われてしまうと、上に挙げたような和太鼓の
魅力、個性というものを殺してしまうことになりかねないし、
限られた表現、身体の使い方に終始する危険が高い
ように思う。

こうした思いは、独りでステージに立つようになった頃から
特に強く感じるようになった。

そして、加藤木朗さんに民族舞踊を教えて頂けることに
なった時に、塩原さんに太鼓を教わった時と同じ感覚で
“まずは基礎から教わるべきでしょうか?”
と尋ねた私に対して、加藤木さんが応えて下さった
話の内容をお聞きして、一層その思いを強めた。

“もちろん全ての踊りに共通する重要な要素はあるが、
動きというのは踊りによって異なるため、まずは一つの
踊りを覚えて、その中から本質的な身体の使い方を
感じ、身につけていくといい”

“目からウロコ”のそのお言葉に、すごく納得すると同時に、
“稽古の目的を認識する”ということの重要性、
難しさを改めて突きつけられた気がして、
う〜んと唸ってしまったのだった。

【指導をする際、受ける際の注意点】

私も、これまでたくさんの子供や大人のグループの方々に
太鼓を指導させて頂いてきたが、目的をきちんと伝えながら
指導してきたつもりでも、やはりきちんと伝わっていない
ことの方が多いかもしれない。

加藤木さんのおっしゃるように、まずはある演目を
覚えて頂き、その中から“身体の使い方の基礎”
というべきものを感じてもらうのも、非常に有効な
指導であると思う。
もちろん、その際にはきちんとした解説を忘れては
いけないが。

たまに、私の指導は“説明が長い”とか、“もっと打たせて欲しい”
とか言われてしまうのだが、目的をしっかり伝えようとすると、
どうしてもそうなってしまうのである。

仮に、“太鼓を打つ時は腕を伸ばしましょう”とか、
“足を曲げて打ちましょう”という簡単な説明だけで
終わってしまうと、その説明をうけた生徒さんが
誤解してしまわないだろうか、と心配になり、
夜も眠れなくなってしまうのだ(笑)

最近は、そうした重要な目的、身体の使い方を
一言で伝えられないものかと、“気持のよい太鼓”
という表現を使うようにしているが、それでもはやり、
その言葉の持つ本当の意味は、しつこいほどに説明
していかなければ、と思う。

なので、みなさん!どなたか講師を依頼し、
指導を受ける際には“話が長い!”などと思っては
いけません!(笑)

和太鼓は、その“とっつきやすさ”とはうらはらに
実に難しく、奥が深い。

しかし、じっくりと自分の身体にセンサーを巡らせ、
また太鼓自体のもつ力というかエネルギーのような
ものをいつも感じるようにしてさえいれば、
“身体の正しい使い方”というものの正解が、
比較的分かりやすい楽器なのかも知れない。

これからも、“気持のよい太鼓”を目指し、
ひたすらに、楽しみながら稽古に精進しよう。
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