プロフィール

長〜い独り言シリーズ 其の四

『大太鼓にかける想い』

このテーマを扱うのは、コンテストで一つでも優勝の
実績を残してから、とも思ったが・・・

今年(2011年)4月から指導させて頂いている“晴”さんで、
大太鼓の指導をしていることもあり、“大太鼓を演奏する”
ということについて普段思っていることを書いてみようと思う。

【大太鼓の存在とは・・・】

日頃“気持のよい太鼓”というモットーを掲げ、
自身の稽古、そして指導を行っているのだが、
唯一それに反するもの、それが“大太鼓”である。

もちろん、大太鼓にもたくさんの“気持ちよさ”はある。
いや、大太鼓ほど気持のいい太鼓もない、とも言える。

師匠“塩原良”が稀代の大太鼓打ちであることも
多分に影響し、私も大太鼓の持つ魅力にすっかり
はまっている者の一人である。

自分が和太鼓で表現、追及したいことのほぼ全てが
詰まっていると思っているし、一生かけて挑み続けたい
相手でもある。

では、なぜ大太鼓が“気持のよい太鼓”ではない、
と思うのか。

“自分が一人で活動するプロの太鼓打ちである”
というのがその理由の一つである。

グループならともかく、プロとして一人で太鼓を
演奏する際に、大太鼓ほど“部の悪い”楽器は
ないだろう。

どういうことか。

例えば、本人が死ぬほどの思いをして体を動かし、
全身全霊の力を込めて打ちこんだとしても、
そのことは本人が思っている半分も見ている人には
伝わらないのである。

例え伝わったとして、アマチュアの方ならそれで
“あぁ、よく頑張っているなぁ”と拍手をもらえるかもしれないが、
プロに期待される“動きの華麗さ”、“格の違う力強さ”、
“感動を与える表現力”といったものからは程遠い。

それほどに難しい楽器なのだ。
もちろん、だからこそ挑む価値があると思い、
私は挑み続けているのだが。

とにかく、舞台で大太鼓を演奏するということは、
“気持ちがいい”なんて言ってる場合では
ないのである(笑)

もう一つ、大太鼓が気持ちよくない理由。
それは“大太鼓一人打ちコンテスト”というものが
存在する、ということである。

(誤解されないよう、先に述べておくが、私はこの
大太鼓一人打ちコンテストというものがあって、
本当に良かったと思っている)

コンテストと言うのは、当然ながら始めから他者と
優劣を競うことが前提となっている場である。
つまり、いかに大きな音を出し、いかに大きな動きをし、
いかに表現力豊かな演奏をするか、ということが
肝要になってくるのだが、先に述べたように、
それはものすごくしんどいことなのだ。

特に、私が最終目標(あくまでもコンテストの中であるが)
としている“東京国際和太鼓コンテストで使用される
浅野太鼓店さん製作による直径4尺の大太鼓は、
正真正銘人智を超えた怪物である。
その太鼓を打ち抜く困難さは、筆舌に尽くし難い。

例えば、恵まれた体躯を持ち、十分なキャリアに裏付けされた
技術と表現力を兼ね備えているのであれば、もしかすると
“気持ちよく打つ”太鼓で通用するのかも知れない。

しかし、それらをどれひとつとして持っていない私にとっては、
“自分の限界を超えた”稽古をするしかない。

そう、とても“気持ちいい”なんて言ってる
場合ではないのだ(笑)

【大太鼓から得られるもの】

そんなわけで、大太鼓の稽古はとてもハードなのであるが、
しかし、だからこそ得られるものも多い。

大太鼓に出会ってからというもの、“どうすれば大きな音が
出るのか”、“どうすれば大きな表現が身につくのか”
それを考えない日はなかった。

太鼓に向かう度に、構えはこれでいいのか、腕の振りは・・・
足の踏み込みは・・・立ち位置は・・・力の込め方は・・・
重心の置き方は・・・軸のとらえ方は・・・身体の割り方は・・・
と自問自答を繰り返す日々。
(おそらく、その答えは一生出ないだろうが)

そして、小太鼓を叩いている時も、踊りを教わっている時にも、
大好きなヘヴィメタルを聴いている時さえも、常に頭のどこかでは
それらの身体操法や、世界観というものを大太鼓の演奏に
活かせないだろうか、そんなことばかり考えてきた。

そんな日々を送ってきた結果、色々と気づいてきたのである。
その中でも大きかったのものに、筋力トレーニングの意味に
対する気づきがあった。

普段から、“和太鼓は力で叩くのではない”という
信念のもと、いかに身体をうまく使えるようになるか、
を目的として稽古をしており、そのために特に意識して
筋肉を鍛えるトレーニングなどはしてこなかったのだが、
大太鼓だけは話が別であった。

縦置きで叩く普通の太鼓と違い、横向きで、しかも
つねに全力に近い力を加える大太鼓の演奏は、
特に首や腰、肩などに尋常でない負担がかかる。

表現力や技術力というのは簡単に向上する
ものではない。
そうした技量を向上させるためには、とにかく
稽古を積み、舞台経験を重ねるしかないのだが、
身体を壊さずに大太鼓を叩き続けるためには、
どうしても始めに筋肉を鍛える必要があったのだ。

もしかすると、身体に負担をかけることなく、
身体の持つ能力を本当に100%引き出せるような
技術(身体操法)を身に付けたとすれば、
筋肉を鍛える必要などないのかも知れない。

正直、そういった言わば“究極の身体操法”の
存在を信じ、それを身につけたいがために大太鼓に
挑んでいるようなところもあるのだが、しかし、
そういった技術が本当にあったとしても、
それを身につけるまでには相当に長い年月が
必要となるだろう。

それまでの間、稽古を重ね熟練度を高めるためにも、
そして、未熟ながらも舞台上で大太鼓をそれなりに
演奏してみせるためにも、まずは身体(筋肉)を
鍛える必要があったのだ。

ただ、自らに筋トレを課するにあたり、私の中には
揺るがない信念、ひとつの確信が生まれつつあった。

“筋肉はあくまでも身体を守るためのものである”
ということだ。

【筋トレの持つ意味】

車に例えると分かりやすいかもしれない。

通常、筋肉を鍛えるということは、車でいうところの
“エンジン”の性能(馬力)を上げることだという風に
認識されるだろう。

それは否定できない事実であるし、私も昔はそういう
認識であった。

しかし、和太鼓に出会ってから、私は筋トレに対して
もうひとつのとらえ方をするようになったのである。
そして、むしろその方が重要だということも。

“筋トレとは、エンジンの性能を上げることではなく、
 ボディの耐久性を上げるものである”

ということだ。

人や機械に限らず、その潜在能力や価値は高いが、
それが十分に活かされていない状態をさして
“軽自動車にF1用のエンジンを載せているようだ”
と表現されることがあるが、まさに、筋肉を鍛える
ということは、F1用のエンジンを載せるための
F1用のボディを作るということなのだと思う。

では、車でいうところのエンジンにあたるものは
なんなのか?

それこそが“身体操法”、つまり“技術”である。
少なくとも、私はそう思いたい。

和太鼓の世界では、華奢な女の人でも
ものすごい音を出せることはよく知られた
事実である。

もし筋肉がエンジンであるとするならば、
このことは説明がつかないだろう。

そう、いくら身体が大きくとも、技術がなければ
大きな力は出せないのである。
(もっとも、そういった技術の差などが影響
しないほどの圧倒的な筋力差があれば別だが)

しかし、大太鼓の世界では、特に浅野太鼓店さんの
大太鼓のような“強靭すぎる”太鼓に挑む場合、
上で述べたような究極の身体操法を身につけない限り、
打ちこみの技術が向上すればするほど、身体にかかる
負担は大きくなる。

そのため、大太鼓奏者として名を馳せている方々は、
みな首や肩などの筋肉が特に発達していらっしゃるのだ。

そんな訳で、果たして本当にその“F1のエンジン”を
見つけられるかは分からないが、来るべき日のために
身体を鍛え続けているのである。

【大太鼓が見せる現実、そしてロマン】

仮に、“究極の身体操法”が身に付いたとしても、
それは、大きな音が出せるという武器を一つ
手に入れたに過ぎない。

芸術的なセンスや表現力というのは、身体操法が
例え劇的に向上したとしても、必ずしもそのこととは
比例しないのである。

それほどに、大太鼓の一人打ちというのは難しい。

しかし、私にとって大太鼓への挑戦は、人生をかける
だけのものである。

大太鼓に出会って人生で初めて
“身体が小さくて良かった”と思った。

打点の高い大太鼓を打ち続けるのは
本当に大変なことだが、その代わりに、
身体の大きな人では表現しづらい
“身体ごとぶちあたっていく”ような
表現も可能である。

何より、ロマンがあるではないか。
身体の小さな者がとんでもなく大きな音を鳴らせる
としたら・・・

これは、シリーズ其の弐で述べた
“仙人になって空を飛ぶ”という
私の人生の最終目標に匹敵するほど
ロマンあふれる私の目標である。

もしかすると、その“究極の身体操法”というものに
たどり着くには、一度“パンドラの箱”を開けないと
いけないのかもしれない。

つまり、一度は体が限界を超えて破壊されそうに
なるのかも知れない。

そう思うのには訳がある。

実は最近、朧気ではあるものの
この小さな身体で大きな力を生み出す
身体操法のヒントのようなものが
見えてきた気がするのだ。

4年間一度も折ったことのなかった大太鼓用の
バチを、ここひと月ほどで2本も折ってしまった。

少なくとも、以前より力を込められるようになった
のだと思うが、しかし、身体に感じる負担も
これまでになく大きな気がする。

ロマンを追い求め、今感じつつあるこの感触を
より確かなものにするためにも、今ここで
身体を壊すわけにはいかない。

身体をより鍛えるとともに、慎重に
稽古する必要があるだろう。

東京国際和太鼓コンテストの舞台で
その成果が披露できるならばそれは
最高に嬉しいことだ。

もちろん、コンテストが全てではないし、
コンテストに出る出ないに関わらず
ロマンを追い求めて稽古を続けることには
変わりはないだろう。

しかし、実績も後ろ盾もない私が、プロとして
活動していくにあたり、こうしたコンテストで
実績をあげることは、客観的に見た“商品価値”
を高めるための数少ない手段であり、
また、お世話になった方々、応援して下さる方々への
せめてもの恩返しと呼べるものでもある。

東京国際和太鼓コンテストの制覇。
これは一つの大きな目標であるとともに、
更なる目標に挑むための通過点でもあるのだ。
←プロフィールへ戻る