プロフィール

長〜い独り言シリーズ 其の五

『“変わり続ける”という信念』

“変わり続けること”

これは、私が舞台の道を志す以前から、
常日頃心がけてきた、自分が最も大切にしている
観念、価値観のひとつである。

武術の世界などでは

“いつかないこと”

などと表現され、やはり古くから重んじられている
観念であるが、これは単に“身体を止めない”
というような物理的な意味だけでなく、
“同じことだけ繰り返さない”
“固定観念にとらわれない”といった意味も含むそう。

私が心がけてきたことも、まさにそういった心と身体の
両方について当てはまることである。

誤解をされぬよう、先に解説しておくと、
この“変わり続ける”という信念は、
“変わること”そのものを目的にしている
訳ではない。

常に自分を顧みることを怠らず、自分の価値観に
対してすら、常に疑問視することをやめない。
そのことによって、自分を高め続ける、という
意味である。

人は誰でも、“いいな”と思える方法論、精神論に
出会ったときには、比較的素直にそれを受け入れる
ことができるが(なかには、それすら意固地に認めない
人もいるが)、“見たことも聞いたこともない”もの、
“意味の分からないもの”については、自分の価値観
で“必要のないもの”と処理して、素通りをしてしまうか、
または“自分をおびやかすもの”として、忌み嫌って
しまいがちだ。

このことは、人の成長を妨げる最も厄介な“見えざる敵”だと
私は考えている。

“自分はまだまだ何も知らないのだ”ということに気づいて
さえいれば、未知なるものに出会った時に、それを
“何も知らない自分の価値観”で判断しよう、などとは
始めから思わないですむ。

さて、ここであまり人生論を語っても誰も読んでくれない
だろうし、私もそれを今回のテーマにしたわけではない。

この“変わり続けること”という信念によって、
自分がどのように“芸”を学んできたのか、
今回は特に“大太鼓”というものに的をしぼり、
いくつか例を紹介したいと思う。

ただ、本題に入る前に、あと2つだけ紹介しておきたい
言葉がある。

“矛盾を矛盾のまま矛盾なく”

“人は体さえあれば退屈はしない”

前者は、私が“心の師”として勝手に尊敬している
武術家の甲野善紀さんが、ご自身が目指す方向性を
示された言葉であり、おこがましいが、私も全く同じ
考えをもっていたため、並々ならぬ感銘を受けた
言葉である。

後者は、作家である田中聡さんが、甲野善紀さんに
ついて書かれた、
「不安定だから強い 武術家甲野善紀の世界」
という著書の中で、ご自身が甲野さんと出会ったことで
得られた実感を表現された言葉であり、私が、植物学者の
道からこの舞台人の道を志す決意をした最も大きな理由、
そのものズバリを言い表した言葉である(独り言その@参照)
同じように感じている人がいるのだ、と感動したものだ。

【●変わり続ける“太鼓奏法”】

さて、ようやくここから太鼓打ちらしいテーマに入って
いくが、先にお断りしておくと、明日になると、私はここに
書いてあることとは、全く違うことを考えて、実践しているかも
しれない。

そのくらい、私の太鼓奏法、この場合は“太鼓を打つ時の
身体の使い方”という意味であるが、その方法論は
めまぐるしく変化してきた。

しかし、その変化の多くは感覚的なものである。
もちろん、、表面的に大きな変化が表れたこともあったが、
ほとんどは、おそらく自分だけが体感している違いであった。

なので、これから述べることは、決して“何かの答え”とか、
“正しい打ち方”などというものではない。
もしも何か参考にしよう、と思っている方がいらっしゃったと
するならば、先にお詫びしておく(笑)
(いや、ほんと、何の参考にもなりませんよ)

自分自身が常に違うことを試しているのだから、“これが答えだ”
などと人に言えるわけがないのだ。
指導させて頂くときにも、“こんな打ち方もありますよ”とか
“今、私はこんな感じで打ってます”と言うことくらいしかできない。
(こういった考え方も、甲野さんと全く同じである)

しかし、だからといって、太鼓に対する確たる信念がないという
訳ではない。

違う方法論を試すにしても、ただやみくもに新しい方法を試して
いたのでは、とてもではないが非効率的で、時間がかかり過ぎて
しまう(もちろん、そういった中で偶然に素晴らしい方法論に出会う
可能性はあるが)。

限られた時間で、新しい方法論をためしていくためには、私なりの
基準がある。
言うなれば、“変わり続けるための変わらない信念”というわけだ。

それが、私の場合これまでに何度か触れた概念、

“気持のいい太鼓”

なのである。

ここから、いくつか具体的な事例をあげてみるが、それらは
少なくとも今の段階では、これまでに試したなかでは一番
気持ちよく太鼓を打てる、と私が思っているものである。
繰り返すが、何かの答え、では決してない。

【●お腹から生える腕!?】

さて、ここからいきなり私らしいマニアックな世界へと突入
するわけだが(笑)
詳しくその感覚を解説したり、その是非を検証したりすることは
おそらく無意味なことなので、ザッと紹介するだけにする。

まずは、“腕”という身体のパーツについて。

腕はどこから生えているか?

西洋医学的には“肩から先”が腕であろう。
今日、最も多くの人々が体感している“腕”かもしれない。

これが、芸能やスポーツの世界では、
“背骨から先”つまり、肩甲骨と肩甲骨の間あたりから
先が“腕”という認識がなされることがある。

そのことで飛躍的に可動域が広がり、パフォーマンスが
向上することも実証されている。

私も太鼓を始めてからずっとこの感覚を磨いてきたし、
今でも有効な概念として“使用”している“腕”である。

そして、私が今年(2011年)の春あたりから“ハマって”いるのは
“お腹から生える腕”である。

実は、今年の富士山、そして岡谷の大太鼓コンテストは、
この“お腹から生えた腕”によって演奏し、それなりの
成果を得ることができた。

しばらくはこの“お腹から生える腕”にお世話になるだろう、
と思っていた矢先、またまた新たなる腕に出会う。

一度、“肩から生える腕”との復縁が深まったが、
ほどなくして“どこにも生えていない腕”が生えてきた(笑)

今(2011年8月)やすっかり、この“どこにも生えていない腕”の
“とりこ”であり、あれこれ動かしながら、その感触を確かめ
一人で“おぉ〜”と喜んでいる(笑)

さぁ、これを読んでいるアナタ、引き返すなら今ですよ。
これ以上読むと、アナタも変人になってしまうかも(笑)

【●帰ってきた左半身】

さて、次は左半身の話。
今回はその中でも特に“胴体の左半分”について。

私の左の胴体は、なんとここ15,6年もの間、“家出”を
していたのだ。
(お、さすがここまで読んできたアナタは、このくらいでは
驚きませんね)

その、家出をしていた左胴体が、ついこの間“帰って”きたのだ。
実に嬉しいことである。

ことの発端は、大学に入った頃、または、まだ高校在学中の
ことである。
はっきりしていないのは、実ははじめの頃は、自分の左胴体が
“家出”をしていることにすら気が付かなかったのだ。

高校の頃(正確には一年まで)の私は、“バスケ命”の部活少年で
あった。

小学校4年から始めたバスケットは、実に“気持のいい”もの
であった。

当時は“メンタル面の弱さ”から、選手としてパッとした活躍は
なかったが(笑)、練習の時であれば、2つのボールを同時に
ドリブルしても、ディフェンスにボールを奪われることはなかったし、
フリースローなら目を閉じても8〜9割の成功率、3ポイントの
エリア内であれば、ゴールを全く見ずに、シュートの構えすら
とらずに、結構な確率でシュートを決めることができた。

これは、身体とボールが一体となっている実感、また、コートとすら
繋がっている実感によるものであった。
バスケをある程度やりこんだ人になら、きっと分かってもらえる感覚で
あろう。

そんな私も、高校2年に上がる頃には、訳あって部活を辞めてしまう。

そして、時は流れ・・・
大学の体育館でバスケをして遊んでいた時のこと。

何度シュートの構えをとっても、なんかしっくりとこないのだ。
ちなみに、私は左利きなので、左手の上にボールをのせて
構えるのだが、とにかく、ボールも腕の動きも安定しない。

ただのブランク、というには違和感が大きすぎたのだが、
その時はそれ以上深く追求しなかった。

また、それと同じくらいの時期から、服屋でズボンを買うと、
必ず右足の裾をふんづけるようになった。

私は足がとても“長くない”ので(笑)、服屋でズボンを買うと
必ず裾上げをしてもらうのだが、はじめは服屋の人が
裾上げを失敗したのだと思った。

しかし、ズボンを脱いで両足の裾を合わせてみても長さは同じ。

気のせいか、はき方が悪いのか、とも思ったが、はき方を
気をつけても、また、別の服屋で別のズボンを買っても
いつも同じことが起こる。

いつしか、私は足首のところをゴムや紐でしぼるタイプの
ズボンしかはかなくなっていた。

そんな状況ですら、まだ“身体の異変”について、大した
危機感ももたずにいた。

それからさらに7,8年が経過し、太鼓を打つようになって初めて、
“自分の体はかなり歪んでいる”ということに確信をもったのだ。

太鼓を打ちこめば打ち込むほど左腕に違和感を覚える。
いや、腕はもとより、左腕を支え動かすはずの左胴体の
“実感”そのものがない。特に大太鼓を打つ時にその
“感覚のなさ”をはっきりと感じた。

“左胴体が家出しちまったぁああ!”
という訳であった(笑)。

芸の道で生きていこう、と決めた矢先に突きつけられたこの
現実により、当然ながら私は相当のショックを受けた。

が、しかし、持前の“のんきさ”、“楽天的な性格”によって、
“ま、とにかくがんばるか”と即座に立ち直る(笑)

それからさらに5年の月日が流れ・・・
(もちろん、この間、身体を矯正しようと、ありとあらゆることを試した)

そして、つい最近、岡谷のコンテストを終えてからのことである。

長い長い家出から、ひょっこりと左胴体が帰ってきたのである。

“おぅ、おかえり”
“ただいま”

そんな、あっさりとした再会であった(笑)。

それでも、さすがに15,6年留守にしていた家(身体)には
すぐに馴染むことができないようで、今はまだ“玄関先で”
モジモジしている感じなのだが、しばらくすればきっと
スッと溶け込むように馴染んでくれるだろう。
焦らず、しかし楽しみに見守って行きたい。

めでたしめでたし

・・・って、結局何の話だったんだ???

え〜っと、つまり何が言いたかったかと言うと(笑)

今にして思えば、高校の時に散々授業中居眠りをし、
また、受験前にはその分を必死に取り戻そうと机に
かじりついていた、その時の姿勢が良くなかったのだ
と思う。
長時間歪んだ姿勢でい続けたことで、致命的なダメージ
を受けてしまっていたのだ。

まだ100%の確信ではないが、その歪みが、常に正しい
姿勢を意識し続けてきた“太鼓と踊りづけの日々”により、
矯正されつつあるのではないだろうか。

“ようやく揃うべき役者が揃った”
今の私の体は、そんな感じである。

【●3本目の足出現!?】

“なんだよ、男なら誰だって足が3本・・・”
“ここまで来て下ネタかい”

と思ったアナタ。これは別に“そういう”意味ではない(笑)
あくまでも“概念的”、しかし“体感的”な3本目の足(脚)のことである。

足(脚)の感覚についても、これまで色々な変化があった。

私が長い間お世話になっていたのは、もちろん今でも活用するが、
空手などでも用いられているという、“足の側面”を活用する感覚、
方法論だ。

西洋のスポーツ科学の影響らしいのだが、多くの人は
足を踏んばる時には、足の内側に力をいれてしまう。
私もバスケのときはそうであった。

しかし、日本の武道などでは、足の外側に力をいれるという
観念も重んじられている。
そのことにより、足から背中にかけて、大きな筋肉を
より効率的に使うことができ、大きな力を発することが
できるのだ。

これは、私も身を持って体感しており、今でも“有効な身体操法”
だと思っている。
太鼓を指導する時にも“内側に力を入れるよりは楽だ”という意味で
お勧めしている。

長らくその感覚で太鼓を打っていたのだが、ある時期から
“フック船長のような足”を意識するようになった。
ワニにかじられて木の棒を当てがっている、あのフック船長
の足である。
両足ともああいう足になった感覚、というのに一時期はまっていた。

これは、より無駄な動きを排除し、力を淀みなく全身に
伝えるのに効果的であった。

そして最近では、“アメーバのような足”となり、それを
補足するかのように、右足と左足の間に“3本目の足”が
生えてきたのである。
(やっぱり下ネタ!?・・・いえいえ違いますよ)

これは、まだまだ十分に“体感”していない新しい感覚なのだが、
今まで以上に“気持のいい太鼓”を打つことができる可能性を
感じている。

具体的な言葉でいうと、
しなやかで、無駄のない、非常に柔らかく、かつ力強い太鼓”
を打つための手がかり、足がかりになってくれそうな、そんな
予感がしている。

【●横打ちは縦打ちとは違うのか】


さて、最後にして、ようやく“まとも”な話になりそうだ(笑)

ここでいう“縦打ち”とは、太鼓の皮(打面)を地面に対して
水平に置き、重力に対して同じ方向にバチを打ちこむ
打ち方のこと。いわゆる“一般的な”太鼓の打ち方。

対して、“横打ち”とは、太鼓の皮を地面に垂直に置き、
重力に対して垂直にバチを打ちこむ打ち方。

三宅島木遣り太鼓や八丈島太鼓囃子のように、文字通り
身体を横向きに構えて打つ場合もあるが、今回は特に
台座の上に太鼓をのせ、太鼓に正対して打ち込む、
“大太鼓”の打ち方のこと。
“横”という言葉は正確でなく、誤解を招きやすいが、便宜上
“横打ち”と呼ぶことにする。ご容赦頂きたい。

一般的には、今大太鼓を打っている方も、縦打ちの太鼓から
太鼓を始められた方が多いと思うが、そうした者にとって、
この、“横打ちは縦打ちとは違うのか”ということについて、
誰でも一度は考えたことがあるのではないだろうか。

すごくシンプルに“そりゃ縦と横は違う”とも言えるが、
実際大太鼓を打ってみると、一概にそうとも言えない
部分もある。

ちなみに、私の場合は次のような変遷をたどってきた。

第一段階
意識とは無関係に、縦打ちと同じように打ってしまう。

第二段階
やはり縦と横は違う、と重力に対して垂直な力を生み
出そうと模索を繰り返す段階

第三段階
縦も横も同じように身体を使える段階

ちなみに、昨年のコンテストでは第二段階、
今年のコンテストでは第三段階であった。

そして、このころ、
“第二段階とは異なるが、やはり横打ちに特化した打ち方”
をするという、第四段階へと突入した。

・・・と思ったら、2,3日でさらにその次まで行って
しまった(笑)

現在は第五段階
“第三と第四を合わせたようでいて、そのどちらとも異なる”
といった状況だ。

“全身をまんべんなく使い、気持ちよく轟音を響かせる”

という、私の目標に近づけるかも知れない。
そんな期待をしてしまう、今までとは大きな
差を感じる段階だともいえる。

【●まとめ】

さて、ここまでダラダラと書いてきたが、やはり
“毒にも薬にもならない”話になってしまった(笑)

ちょっとでも期待して読んでしまった方、ごめんなさい
(だから先に断っておいたのに・・・)

それでも、一応まとめのようなものを書くとするか。

今回、上に挙げたような事例は、当然それぞれが
独立して起こったことではない。

その全てが同時進行で起こっているために、
自分でもどれがどう影響し合っているのか、
正確に把握することはできない。

なので、例えば今自分がいる段階にいるのは、
全ての段階を踏まえた結果である、とも言えるし、
もしかすると最初からここを目指していれば、
もっと早く到達できたかもしれいない、とも言える。

何となく身体全体を使えるようになってきたとは
思うが、それは腕、肩、背中、腹などを筋トレに
よって鍛えてきた結果かもしれないし、やはり
筋トレなどしない方が全体をバランスよく使うための
早道かも知れない、とも思う。

結局のところ、最初に書いたように、何が答えで、
何が正しいのかなど、分かるはずもないが、とにかく
私は“気持のいい太鼓”を目指し、試行錯誤を繰り返し
ながら、前に進んでいくしかない。

その道筋が正しかったのかどうか。
“芸術的”な身体操法が身についているのか。
その答えを出すのは自分ではない。

舞台を見て下さるお客様であり、
コンテストの審査員の方々である。

自分に言える確かなこと。

それは、
“今の自分は間違いなく自分史上最高である”
ということだけだ。

・・・最後だけカッコつけてもダメか(笑)
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